joseph carey merrick.

幸せになりたいだけなのに

レミングの向かう先に

 

ふわふわと漂いながらも水に濡れれば重くのしかかる綿のような日々。雨の日は調子が悪くなるけど嫌いになれない。生活圏に人が少なくなるから。

 

近頃、表現するという行為が非常に苦手だと感じている。感想や要望を求められても、少し考えるふりをして、当たり障りのないことを毒にも薬にもならないように伝える。内容について、思う事というものが殆どない、というより、まるで他人事のように分からないと言ったほうが正しい。

友人と過ごしているとき、家族といるとき、一人きりのとき、SNSでフォロワーと話しているとき、ファストフード店の店員に注文を告げるとき、野良猫がこちらを睨みつけているとき、私という存在は、その全てが全く違う生き物のように感じる。それは別に不思議なことではなく、誰もが置かれている環境によって自己のキャラクターを演じ分ける。しかし、凡そ殆どの人間はその全てを自己とし、それを本心として矛盾しない。

 

私は自己というものの得体が知れないのだ。日々を浪費する度に少しずつ齟齬が生まれて、こんなものは私ではないと目を背ける。傍観者としての意識が、汎ゆる行動を、感情を、祈りを、呪いを、違う、違う、私じゃないと泣き叫ぶ。愛されても、恨まれても、抱きしめられても、頬を打たれても、生まれたときも、死ぬ瞬間も、何もかも、違う、違う、違う。